2020年6月の事、大阪市内に残る廃線跡の第三弾として南海平野線
を探ってきました。
…南海電鉄とは言っても本線や高野線のような高速鉄道ではなく、
いわゆる「阪堺電車」の1路線だった所で、殆どの区間が専用軌道
を走る路面電車のような路線です。
区間としては現在と同じ阪堺線の今池駅から分岐して、南東方向の
平野駅まで5.9kmを結んでいました。
開通は大正2年の事ですが、阪堺電車と言う会社は経営母体が時々
変わってたもんで、親会社でもある南海電鉄に合併されてる時代の
昭和55年に廃止されたもんで「南海平野線」になるワケですね。
…ちなみに同線の廃止(運転最終日)が昭和55年11月27日の事なの
ですが、4日後の同年12月1日に再び阪堺電車として独立しています。
そんな感じで今池駅からスタートです。前回、同じ南海の天王寺支線
の廃線跡を歩いた時から気になってました。駅(と言うか電停かな)の
位置は例によって、事前に調べた物を地図アプリに落とし込んでます。
見れば分かる通り、現在は殆どの区間を後に開通した地下鉄谷町線
が肩代わりしてますね。

まずは今池駅の周辺からですが、例によってコノ付近は特殊な地域
なので「常識でしょ」と言う事を一々貼り紙にして書いてあります。
私が通り掛かった時、件の駐輪場ではおばさんが爆睡てました。
…女性のホームレスが出るとソノ国は経済的に終わってると聞くん
ですが、大丈夫なんですかね?
貼り紙と言えばお約束が猫関係。猫と人間がほぼ同じような生活
スタイルで暮らしてる町なので、恐らく結構な数が居ます。
最後の行を塗り潰してあるのが気になるんですが、猫にエサを与え
なければ…何なんでしょう?
ともあれ今回は、駅の階段付近に2匹ほど発見しました。
…黒い方はまだ子猫ちゃんかも知れません。
ついでに言えば、路上の其処彼処に人間のオッサンも似たような感じ
で座り込んでるのがデフォです。…しかしカナリ高齢化したな。
恐らく世代交代してないから、そのうち無くなる文化かも知れません。

…そろそろ真面目に廃線跡を探っていきましょう。
今池駅から南の住吉大社方向へ向かうと、線路は30‰の下り坂に
なっています。手前の鉄橋部分が天王寺支線を跨いでたワケですが、
下を通ってたソレが廃止されても、立体交差は元のまま残ってます。
そしてコノ勾配の途中から、平野線が左…南東方向へ向いて分岐
していたそうです。都市部の路面電車だから複線だった事でしょう。
付近の地図を見ると、土地の区割が不自然に斜めになってる所が
あり、明らかに廃線跡だと分かる形になっています。で幾つかの
建物はその区割りに沿って斜めに建てられてるようですね。
そして上の地図に載ってる建物AとB…何れも集合住宅のようですが、
実物の写真がコレです。Aは建物自体が途中で折れてる形だし、Bは
道路に対して斜めだからエントランスが台形になってます。
…こう言うのを発見した時が、廃線跡巡りをやってて一番面白い瞬間
ですね。今回はアタマから興味深い光景を見る事が出来ました。
では続けて廃線跡を歩いて行きます。元が路面電車だから普通に道路
を歩けばイイだけなので、気分的には楽ですね。
堺筋を渡って線路があった位置と同じ形でカーブした路地を歩いて
きました。

この付近に平野線では最初の駅となる飛田駅があったようです。
…駅とは言っても路面電車の軌道区間ですから、低いホームの電停
に近いようなスタイルだったと思われますが。
廃線跡らしき土地はフェンスで囲まれており、何故か畑になってました。
…天王寺支線の時もそうでしたが、この周辺では時々出てきますね。
茄子やゴーヤなどが植えられてましたよ。
ココから廃線跡は東へ向かいます。…西を振り返ると、現在も残る
阪堺線の踏切が見えました。踏切を挟んで今船駅がある筈ですよ。
暫く行くと登り坂になりました。…川を跨いでるとかではなく土地の
高低差(上町台地)による物のようですが、道路脇の電柱が何となく
鉄道の架線柱に見えますよね。
…と思ったらやっぱり正解だったようです。南海電鉄の社紋が入った
番号札が付けられていました。日付は「昭.32.6」となってます。
こう言う物を見つけるのも、廃線跡巡りの楽しみの1つなんですよ。
頭上に被さってくる道路は阪神高速の14号松原線です。
…先で西名阪自動車道と繋がってるので、奈良県中部から大阪へ
出る場合の定番ルートであり、私も何度も走ってる道でですわ。
廃線跡は暫く、この14号松原線に沿って走る事になります。

そのまま進むと、あべの筋と交差する阿倍野交差点に至ります。
ココにも阪堺電車の上町線が今でも残っていますね。
北へ500mほど行くと上町線の始発駅である天王寺駅前なのですが、
平野線は阪堺線の恵美須町から先程の今池を経由してくる系統と、
天王寺駅前からココで東へ曲がる系統の2種類があったようです。
交差点から北側を見ると、現在はあべのハルカスが目立つコノ通り
ですが、古代には熊野詣のための街道だったようで、交差点付近に
説明書きの看板がありました。
…後鳥羽上皇は生涯に25度も熊野詣に出掛けた?
この人は60歳まで生きてますが、平均すると2年半に一度のペースか。
京都から例えば熊野本宮まで片道250kmほどの道程になるとして、
何日掛かるんですかね。殆ど仕事してなかったんじゃないのかな?
…話を廃線跡に戻しますが、交差点付近に南海電鉄の社紋が入った
土地境界のマーカー(正式名称を知らない)が幾つかありました。
廃線から40年が経過してるワケですが、まだ所有地があるのかしら?
平野線の阿倍野電停は、交差点の東側にあったそうですが、流石に
ソレらしい痕跡は確認出来ませんでした。
ともあれココから更に東へ向かって、廃線跡巡りの旅は続きます。
さて南海平野線の跡地を探る旅ですが、ココからは…と言うか路線の
大部分は阪神高速14号松原線の高架下を通る事になります。
ちなみに地下には地下鉄(大阪メトロ)の谷町線が通っており、平野線
が無くなってからの代行ルートを肩代わりする格好になってますね。
ココに限らず高架道路の下と言うのは、駐車場や公園などに使われる
事が多いワケでして、ゲートボール場なんかも見られます。
…今回歩き始めた西成の萩ノ茶屋近辺からカナリ離れた気がするん
ですが、まだまだオッサンが無意味に座り込んでますね。

「猫のエサやり禁止」の貼り紙があると言う事は付近に猫が居ると言う
事ですから、見回してみると高架道路の支柱に1匹確認出来ました。
そう言えば周囲が猫くさいので、もっと居るのかも知れませんが。
片上鉄道のホトフ駅長に似た白黒の八割れさんです。
…Twitterに猫の画像を上げておくと、鉄道には全く興味がナイような
女性からでも「いいね」を貰えたりするんでよ。

次が苗代田(なわしろだ)と言う電停だそうですが、付近の郵便局に
地名が残るだけで、鉄道の廃線跡らしき物は発見出来ませんでした。
ちなみに阪神高速松原線の該当区間は、南海平野線が廃止になった
のと同じ1980年の3月に開通&営業を開始しており、高速道路の下を
路面電車が走ってた時期も僅かながら存在します。

Wikipediaによると、駅前にあった喫茶店がほぼ昔のまま残ってると
言う事で、左のお店がソレだと思われます。
…テレビの旅番組なんかだと、ココのお店に寄って平野線が走ってた
頃の話を聞いたりする流れになると思われますが、私がコミュ障気味
なのと、総じて個人経営の飲食店が苦手なのでスルーします。
ココから次の文の里までは、沿線で一番の勾配区間(こっち向きでは
下り)だったそうで、望遠で詰めてよく見たらそんな感じかな?
と言う印象ですね。
てか最初に見てきた今池駅南側の分岐点の方がキツかった筈でしょ。
しかも勾配の途中に分岐点(郊外方向から見れば合流点)があるから
信号に引っ掛かると坂道発進は大変だった事でしょう。
…曇りがちだったお天気が回復して、カナリ暑くなってきました。
市街地だから飲物の自販機などには困らないのが有り難い所です。
続いてが地下鉄谷町線の駅と同じ名前の、文の里電停です。

…当然に南海平野線の方が先だから、大正時代から「文の里」なの
ですが、Wikipediaによると元々は近隣を宅地開発した不動産会社
が付けた名前であり、付近に学校が多かったからの命名だそうな。
その7番出口から出た付近に、記念碑があると聞いておりますので
早速探してみましょう。

駅の地上出口も阪神高速の高架下にありますが、周辺は主に駐輪場
として使われています。…流石にココまで来たら酒盛りをやってる
オッサンは居ないようですが。
んー、あるにはあったんですが、記念碑と言うか錆びた説明看板が
1枚だけの物です。…説明によると電停ながら有人駅だったようです。
現在でも乗務区のある我孫子道などは有人駅ですね。
高架道路が町の区割りに対して斜めに通ってるので、45度の角度が
付いた交差点があり、昔ながらの商店街がありました。
…どうも活気がナイように見えますが、ウイルス騒ぎの自粛による物
なんでしょうか?そう言う事情が無くても、最近は古い商店街ってのは
寂れがちだと聞きます。高い割に品揃えも少なかったりするし…。
ともあれ先に向かって進みましょう。…歩道の植え込みには季節柄、
紫陽花がキレイに咲いています。

更に進むと大きな池がある公園が出てきました。…桃ヶ池公園と言う
そうですが、この近くに平野線の股ヶ池電停があったようです。
地名でよくある漢字のすり替わりで「桃」が「股」になったそうですが、
そんな説明が無ければ「またがいけ」と読んでしまう所ですね。
近くをJR阪和線が走っており、二重の立体交差になってます。
阪和線が最初に開通したのが昭和4年の事であり、天王寺駅には
既に関西本線や城東線(大阪環状線の東半分)があったので、当初
からコノ南海平野線を跨いだ先まで高架線として建設されました。
…そしてコノ地点の南側で地上に降りてた物が、2004年〜2006年に
掛けて連続立体交差として高架化されたので、今ある阪和線の高架
は開通当初の物とは違うんだそうです。
地上を走ってる鉄道を高架化する場合、営業しながらだと既存の線路
の隣に高架線を新しく造って切り替えるケースが多いですよね。
だから完成後は、元々あった線路跡は空地になるか他に転用されるか
ですが、ココは空地のまま残っていました。
…厳密にはコレも廃線跡と言う事になるんでしょうが、探っても面白く
ナイと思われますので放置しておきます。
そろそろ半分ぐらいは来たんでしょうか?…発想から抜けてましたが、
近くで調達出来るなら自転車で回った方が良かった物件ですね。
さて南海平野線の跡地を探る旅ですが、次は短距離の区間に駒川町
〜中野と電停が続きます。

…左が駒川町電停の跡地付近ですが、次の中野も似たような感じで
双方とも特に鉄道の痕跡は全く残ってません。もう慣れました。
で面白いのが、同じ区間を振り替えた地下鉄谷町線ですね。
駒川町と中野のほぼ真ん中に駅を作って、ココが駒川中野と言う名前
になりました。…はい、地下鉄谷町線ってのは、この手の「複合駅名」
が矢鱈と多い事で知られてますわな。
北から順に太子橋今市・千林大宮・関目高殿・野江内代・四天王寺前
夕陽ヶ丘・駒川中野・喜連瓜破…と、ほぼやけくそで集めた感じですよ。
…大抵が「双方の住民の意見が対立して面倒だから両方付けた」の
パターンなのですが、太子橋今市は駒川中野と同じように2つの電停
(こちらは大阪市電)の名前を合わせた物です。

駒川中野駅の真上に近鉄南大阪線が通ってますが、ココに近鉄の
駅はなく、今川と針中野の真ん中付近になるようですね。
どちらも高架沿いに歩いて約500mなのですが、関西人の感覚では
ココに乗り換え駅のイメージはありません。やはりどっちも天王寺
方面へ通じてるからでしょう。
…逆に東京だと、そのぐらいの距離なら地下道などで無理矢理に
繋げて「乗り換え出来ます」みたいな事にしてるケースが多くナイ?
田舎者にとってはアレが複雑で仕方ありませんのよ。
そして中野電停の跡地がココら辺だそうです。相変わらず阪神高速
の14号松原線が頭上にあるワケですが、高架道路の支柱がココだけ
T字型の物になっており、脚の中心が微妙にズレています。
…Wikipediaによると、コレは元からあった中野電停を避けるように
作った事の名残りだそうですが、実際の所はどぅなんでしょう?
場所によっては駅のホームが削られたり、又は2本脚の橋脚にして
完全に真下を線路が通ってた区間もあるらしいんですよ。
高速道路の開通は平野線の廃止と同じ1980年の3月なのですが、
計画段階で決まってたのかどうか気になる所です。

…晴れたり曇ったりのお天気ですが陽が射すと暑い分、道路沿いの
紫陽花がキレイに映える気がします。
ずっと頭上にあった阪神高速と地下を走る地下鉄谷町線はコノ先で
右へ曲がり、ココから先は廃線跡が単独で存在する区間です。
そろそろ先が見えてきましたが、公園になった所があるようです。
…背戸口公園と言う名前が付いてますが、廃線跡を公園として整備
した物らしく東西方向に細長い形をした土地ですね。
そして流石に線路は残ってませんが、右のように舗道にタイルで線路
をイメージしたような模様が描かれていました。
ココが終点の1つ手前に当たる西平野駅があった地点になります。
区間の全体を描いた路線図がありました。起点の次のかすみちょう
(…正しくは南霞町)は現在の新今宮駅前電停です。
現在は大阪市の市街地に組み込まれてしまってる所ですが、恐らく
昔は郊外の農村地帯であり、手前の中野電停からココまでは同線で
駅間距離が最も長い区間だったそうな。…歩くのも疲れたワケだ。
公園の敷地と横の道路を隔てる車止めが、鉄道の遮断機を模した
デザインなのが素敵ですね。
背戸口公園を出ると、通称で「内環状線」と呼ばれる国道479号線に
出ます。阪神高速と地下鉄谷町線は背戸口公園の手前付近から右
(南)へ曲がっており、高速の平野入口が見えてますね。
廃線跡はコレを横切って暫くは宅地転売された所を進み、100m程
の所から遊歩道が始まっておりました。…地図によると「南海平野線
平野駅跡地プロムナード」と言う名前になってます。
ココがその名の通り、終点の平野駅の跡地になるようです。駅とは
言っても阪堺線などと同じ路面電車規格の鉄道なので、低いホーム
で駅そのものの長さもソレほど長くナイ規模だったと思われますが。
…何やらレトロモダンなデザインの一本足の屋根が付いたベンチが
ありますが、コレは何なのか?後で判明します。
 
同じ敷地内に南海軌道線(阪堺電車)の車両をデザインしたモザイク
壁画と、ソレに関する説明書きがありました。
車両はモ205型という物で、開業当初の木造車を昭和に入ってから
鋼体化した車両だそうです。元は軌道線の全線で使われてましたが、
平野線の末期にはココで専用的に使われてました。
後に出て来る車両より小さくて阪堺線などでは輸送力が落ちるのと、
平野線がワンマン化されず廃止になる事が決まってたので、非対応の
同形式が集められたそうな。

ココは手前の遊歩道から繋がった公園のようになってますが、やはり
舗道はタイルで線路を模したデザインになってるし、レプリカながら
3灯式の信号機があったりもします。
そして一番奥には車庫みたいな藤棚がありました。支柱は古レール
を再利用してるようです。…先程の背戸口公園も然りなんですが、
ココを設計(と言うかデザイン)した人って、絶対鉄ヲタでしょうね。
藤棚の車庫に入り込んだ線路(の絵)は、引込線にありがちな放物線
状の車止めで終わってました。…ココまでやれば完璧ですな。
そんな感じで無事に終点まで見終えましたので、さっき渡ってきた
内環状線との交差点まで戻り、地下鉄谷町線の平野駅から天王寺
方面へ戻る事にしましょう。
平野にはJR大和路線の駅もありますが、こっちの方が近いのです。
話は反れますが平野には大念仏寺と言うお寺があって、融通念仏宗
と言う関西ローカルな宗派の総本山であり、ウチの実家もココの檀家
なのですよ。
子供の頃、祖父の納骨に来た覚えがあって、アレが確か小学校の
2年生ぐらいだから昭和55年の筈なんですよね。お寺は国鉄平野駅
の方が近いから、南海平野線の方はニアミスで知らない状況ですな。

一番近い入口から入って改札方向へ向かう地下道を歩いてると、壁に
地元の古い写真が展示してある一角がありました。
…もしかしたら?と思ったら、平野線の写真も何枚かあるようです。
広報誌か何かの写真を拡大複写した物らしいのですが、撮影時期が
書かれてナイ物が多いですね。
右の物はバスの感じからして昭和30年代ぐらいの感じでしょうか?
やはり人家は少なく田んぼばかりの農村地帯だったようです。
そして南海平野駅の写真もありますね。昭和55年の廃止時、やはり
多くの人が別れを惜しみにやって来たようなキャプションが付いて
ますが、左の写真は普段のラッシュ時間帯を撮った物な気がするぞ。
で、駅舎が右のような感じだったようです。大正時代のモダン建築で
八角形の特異な屋根の駅ですが、コレを再現したのがさっき見た
ベンチの屋根なんですね。…やはり生で見たかった物件ですよ。
そんな感じで南海平野線の廃線跡巡りはココまでになりますが、また
別の所に保存車が何箇所かあると聞いてますので、駅ノートなどの
間合い運用で見に行く事にしましょう。
まずは東大阪市です。JR学研都市線の徳庵駅近くにある近畿車両
の敷地内に1両あると言う事で、ソコから見に行きました。
ココにあるのはモ161型のうちの171号車です。昭和6年に近畿車両
の前身会社である田中車両が製造した電車だそうです。
廃車になった後、里帰り的な意味で引き取られたのかも知れません。
阪堺線規格の大型車両で、新造時の塗装に復元されています。
元から3枚扉で最初は中央の扉のみが自動式でした。
…車掌が後部から遠隔操作出来る事が画期的だったようですね。
車両工場の敷地内ですから、当然に部外者は立入禁止です。
学研都市線の線路を挟んだ住宅地から辛うじて見えるんですが、道路
が袋小路になってて、こちらも近隣の家に用事のある人しか入って
来ない状況でしょう。2枚撮って引き上げるので精一杯でした。

コレだけでは物足りないので、同じ東大阪市内の大阪産業大学へと
移動しましょう。…ココにも1両、保存車があるらしいのですよ。

…基本的に大学と言う所は、他の学校と違って部外者の出入りに
関しては比較的ユルいイメージがあります。
時代は違いますが私が行ってた学校は、入試の前後などを除けば
24時間ほぼ開けっ放しであり、サークルのボックス棟なんかは殆ど
そこに住んでるような者も居た感じだったんですが…
懸念した通り、謎のウイルス騒ぎで休校中だったようですね。
しかし公道に近い所にあるのが幸いしました。ココは学生さん用の
駐輪場らしいのですが、柵の隙間から何とか見れる範囲で写真だけ
撮ってしまいましょう。

ココにあるのはモ205型のうちの229号車。平野線跡地の終点付近に
モザイク画で描いてあったのと同型の車両です。…開業時の車両を
昭和に入ってから鋼体化した物だそうな。
他の車両…例えば上のモ161型と比べて小型なので、最後は比較的
ローカルな平野線に集められてたそうです。
同線の廃止後、車齢の若い(とは言っても50年物)車両はワンマン化
されて、阪堺線などと同じ3枚扉に改造されましたが、平野線と共に
引退した物はオリジナルスタイル(2枚扉)のままです。
駐輪場だから学校の講義がある時は自転車が一杯で逆に撮り
にくかったかも知れません。…コレも塗装は昭和初期〜戦後すぐ
ぐらいの感じを再現してあります。
…私は阪堺線なら子供の頃に一度乗った事がありますが、当時は
車両全体を広告塗装にする事は稀であり、コレに近い「南海グリーン」
の一色塗りの物が大多数だった記憶があります。
車内は非公開のようですが、一応は枕木を積んだ階段がありますね。
…学園祭とかのタイミングで行けば見れたりするのかな?
平野線オリジナルの車両は和歌山にもあるそうで、ついでの事に日を
改めて見に行く事にしました。
…阪堺電車は路線の南端が大阪府堺市の浜寺公園ではあるものの、
南海グループと言えば和歌山とも縁の深い企業ですよね。
この交通公園も鉄道路線で言えば和歌山電鉄貴志川線(現在は岡山
の両備ホールディングスの一端になっている)の沿線にあります。
交通公園だから、子供さん向けに交通ルールを学習するための施設
なのでしょう。自動車教習所のソレを小さくしたようなコースがあり、
自転車や電動カートで敷地内を走れるようになっています。
たまたま日曜日に当たったので、結構な人出で賑わっておりました。
公営の施設なので入場は無料です。
…その端っこに軌道線仕様の小型電車が置かれていました。先述の
大阪産業大学の物と同型車のようですね。車番は描かれていません
が各種資料によると217号車だそうです。
車体にある広告枠の1つに説明書きが入ったており、やはり平野線
で走ってた車両である事が記されていました。
…廃線の約1か月後にはココで移設保存されたと言う事で、事前に
引き取り先が決まってたのかも知れません。
路面電車も自動車が台頭してきた時期に一気に廃止されたような
乗り物なので、ある年代に大量の廃車が出た事でしょう。
…現在では少ないケースかも知れませんが、海に沈められて魚礁
(魚の隠れ家になるような障害物)になった物もあったそうな。
銘板には何故か形式と重量などが抜けてますが、製造は昭和12年。
…コレは元の車両を車体更新(鋼体化)した時の年号でしょう。
こちらも製造時の塗装に近い感じになってますが、雨ざらしなので
カナリ痛んでますね。パンタグラフは降ろした状態になってます。
…大阪産業大学の物で「デカいな」と言う印象があったんですが。
通常なら車内に入れるらしいのですが、やはり謎のウイルス対策で
見学不可になってました。…「お控え下さい」だから任意な事かと
思ったら、しっかり施錠されてましたわ。
…交通公園だから大部分の子供さんは教習コースの方で遊びたい
筈であり、こっちはソレほど「密」にはならないと思うんですけどね。

七夕の前だったので施設の一端に笹飾りと短冊を書くコーナーが
ありました。そう言えば以前に、ココと同じ貴志川線の貴志駅でも
七夕の短冊を書いた覚えがありますね。…「和歌山=七夕」かい。
子供さん向けにクレヨンが多くあったので、現状を10分ほどで絵に
してみました。一応は「願い事を書く物」ですからね。
…以上、保存車3両を含めた南海平野線の廃線跡報告でした。
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