廃線跡を探る旅 #029
The trip for abolished railroads #029

 鉄 道 会 社  路 線 名  廃止年月  調 査 区 間  訪問年月
JR貨物 大阪臨港線
2006/04
境川(信)→浪速(貨)
2020/05
大阪市内に存在した大阪臨港線の廃線跡を探る旅です。意外と最近まで色んな設備が残ってたようですが…。 




2020年5月大阪市内廃線跡としてまず南海電鉄の天王寺支線
見た後、続いては新今宮から大阪環状線外回り電車に乗って西
向かいました。

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大正駅を過ぎて右に大きくカーブし、弁天町駅に着く手前の所に、
線路の間隔不自然に広がって外回り線高く持ち上がる箇所が
あります。過去貨物線が分岐していた境川信号場ですね。

貨物線上下線の間に割り込んでくる線形なので、外回り線を高くした
構造になってるワケですが、2006年までココにあった大阪臨港線です。

境川信号場「電車でGo2」にもソノ表記単機のDD51が停まってる
シーンが出てきますので、ソレで覚えてる方も多いと思いますが。

…と言う事で、次はコノ大阪臨港線跡地を探ってみましょう。

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鉄道黎明期明治時代は、湊町駅(現在の
JR難波駅)が関西本線始発駅であり、
今宮から西へ向かう部分は大阪港へ至る
貨物線でした。

…それが1961年大阪環状線全通して
旅客化された際、境川信号場からの貨物線
は同線の支線として残る事になりました。

最盛期には浪速貨物駅から2方向に分岐
して大阪港まで線路が存在しましたが、
その後、規模が縮小して末期には浪速駅
までの2.3kmが残ってたそうです。

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と言う事で大阪環状線弁天町で降りまして、ココから廃線跡を探し
つつあるいてみる事にしましょう。

跡地と言えば、は以前に大阪交通科学館があった駅前の一角
ですが、全てが京都の鉄道博物館引っ越して以降は完全に更地
となり、現在はコインパーキングがあるだけですね。

ココに限った話ではありませんが、土地が空いたからと言って、すぐに
「次の何かを造ろう」とは行かない御時勢のようです。

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そんな感じで、まずは大阪環状線から大阪臨港線が分岐していた
境川信号場付近まで行ってみました。左の画像奥手に見えるの
大阪環状線、手前が臨港線が通っていた鉄橋の橋台跡です。

廃止から十数年と言う事で比較的新しい方なのでしょう。非常時の
連絡先などを記したプレートが残っています。

貨物線だから所有者JR貨物になる筈ですが、連絡先として記して
あるのは「西日本旅客鉄道株式会社」JR西日本なんですね。実際の
施設の管理はそちらに委託されてたとか、そんな事情かも知れません。

しかし低いですね。目測ですが乗用車は通れてもワゴン車は無理

で、現在は橋台だけが残るコレに車をぶつけてしまった場合、ココに
ある連絡先に電話するとどうなるのか?…が気になりました。
「あ、そうですか。」済まされる可能性もあるような気がするぞ。

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ソレほど高い築堤ではナイので、頑張って登ってみましょう
奥手の丸っこい建造物京セラドーム大阪です。
 
ズボンの裾植物の種(関西でよく言うひっつき虫)だらけになり
ましたが、廃線以降もカナリ長らく線路が残ってて、私も何となく覚えて
います。てか詳しく知らずに見てた記憶はありますよ。

廃線跡はココから西の方向へ向かうワケですが、段々と下り勾配
なっており、もう少し行くと完全に地上へ降りるような感じですね。

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廃線跡と平行して、北側アーケードのある商店街が伸びてますが
双方に直交する路地がありました。当然に元は踏切だった筈ですが、
何故か線路跡だった部分に障害物が置かれ、通行止めになってました。

車の通行量増えると危険だから…と言う地元の意向なのか、又は
前後の道路と同じように見えても私有地なのか?ソノ辺はです。
…左の地点に至る廃線跡には「無線切替」の標識が残ってますね。

その反対側浪速駅方向廃線跡駐車場になってます。半分ぐらい
コインパーキングで、残りは商店街の搬入スペースと思われます。

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更に進むと高架道路のある広い通りに出ました。高架道路阪神高速
の17号西大阪線側道国道43号線です。…高速道路はイイとして、
地上を通る国道43号線踏切で横切ってた事になりますよね。

付近の歩道橋を渡って道路の反対側へ行き、更に続く廃線跡を見ると
踏切の両脇によくある感じのゼブラ塗装の柵が残ってました。

貨物輸送大部分鉄道が担ってた時代と違い末期にはココを
通る定期の貨物列車日に2往復量が少ない運休する事もあった
ようで、自動車の邪魔になる事も少なかったものと思われます。

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ココから先は、次の踏切跡まで手付かずの更地のままでした。
これも目測ですが、としては複線用の用地が確保されてる感じです。
しかし末期単線で運用されてたようですね。

やはり極端に細長い土地であり、国道に面してるけど店舗などに使う
には間口が狭いので、簡単には売れないのかも知れません。

次の区間コインパーキングでした。…左手部分が立体になってる
ので、この幅では乗用車の回転半径足らず後向きの状態から
出庫したい車は切り返して方向を変える必要があるようです。

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そしてまた更地の廃線跡になります。ココにあった踏切「当分の間
休止する」と言う旨の看板が出ていますが、2006年の廃止に先立って
まず表記の日付(平成16年…2004年)に休止されたワケですよ。

…結局は「当分の間」終わる事は無く廃止になったワケですが、
ココはつい最近(去年あたり)航空写真ストリートビューを見ても、
線路が残ってるのが確認されておりました。

右の看板に「無駄耕作物」という文言が出てきますが、画像で見るに
近所の人にしたり不用品を置いたりで、マニラの裏路地みたいな
状況だった事が伺えます。

…それなら一々迂回せずとも、歩いて通り抜けれたかも知れません。
そんな感じでコインパーキングなど の立ち入りが自由な場所以外は、
最も近い公道
を迂回しつつ線路と踏切で交差してたであろう地点を
拾いつつ歩いておりますが…

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ココはどんな構造だったんでしょうね。路盤道路より1.5mぐらい
高いのですが、橋台が見えるから踏切ではなく高架橋?

…だとすると頭上高数十cmしかないワケで、自転車でも無理
だろうし、徒歩なら這って机の下をくぐるようなもんでしょう。

僅かにレール枕木が残ってるのが確認出来ますから、線路
この高さだった事は間違いないと思われ…だとしたら道路がもっと
低かったのか?しかし埋めたようには見えないんですよ。

結局分からなかったのですが、ココが今回の中一番の謎でした。

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更に行くと野球の練習所転用されてる区間が出てきました。
航空写真で見ると、結構な長さ緑色の屋根みたいな物が続いてて
「コレは何だろう?」と思ってた所です。

廃線跡のような細長い土地で、野球の練習って可能なんですかね?
中を見ればトスバッティングをやるような区切りが多くある感じですが、
フライを高く打ち上げての守備練習などは無理でしょう。

野球には詳しくナイので、どう言う括り少年リーグとか実業団とか)
のチームか分かりませんが、この設備だけ強かったらスゴいわ。

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その先は運送会社の敷地になってるようでした。

すぐ近くに付近の案内図があったんですが、幾つかの会社が入れ
変わったりしてシール名前を貼り替えてある箇所があるものの
「JR用地」だけは10年以上経ってると言うのにそのままです。

そしてココを過ぎると運河を渡る事になるんですが…

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航空写真では鉄橋の跡が確認出来るものの、実際には撤去されて
まして、跡は残っていません。…話によると廃線後カナリ長い間
低めのガーター鉄橋が残ってたようです。

左の写真で見る限り複線用の鉄橋ではあるものの、片側だけ使われ
てた感じでしょう。コレが残ってたらビジュアル的に一番良かったワケ
ですが、無くなった物は仕方ありませんね。

廃線跡巡りを扱ったブログサイトも色々と見たんですが、新しい物
少なくTwitterで検索すると、去年の11月頃から撤去工事が始まった
ようです。実際の運河に居るクレーン船がソノ作業用みたいですね。

近い所なだけに「もっと早く見に来たら良かったかな」と思いました。

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Twitterなどに上がってる情報を総合すると去年の秋頃から橋桁
撤去が始まり、残っていた橋脚も最近になって壊されたようですね。

Googleの航空写真やストリートビューって、場所によっては何年も
前の物が表示されるので、今でもあるかのように錯覚してましたが。

廃線跡堤防に掛かる部分は防潮扉になってました。コレは元々、
同線が現役の頃から同じ場所に存在したようです。

そして運河に沿った道路を挟んだ地点は運送会社の倉庫になった
ようです。…ココは比較的早くに転用されたらしく、何年か前情報
サイトにも出てきてました。

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その先が今回の廃線跡巡り終点となる浪速貨物駅跡地です。

開業1928年の事ですが、実際の終着駅は更に先の大阪港駅(現在
地下鉄中央線同名の駅とは)であり、浪速駅貨物取扱駅
言うより仕分けヤードのような性格が大きかった所だと思われます。

跡地は大阪シティバス大阪市営バス)の研修所佐川急便
営業所になってますが、最末期JR貨物の看板残ってました
…単なる外し忘れか、書類上の何かが残ってるのかは不明です。

バス会社の研修所って事で、恐らくは実車を持ち込んでの技能教習
もあるのでしょう。道路から見える位置に大型車サイズ鋭角コース
がありますね。

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そして先述の通り、開業時にまずココから更に南下して大阪港(現在の
海遊館付近)までの線路が作られました。

そして1956年浪速駅の先で分岐して大阪東港駅(現在の阪神高速
天保山JCT付近)に至る路線(通称 大阪東港線)が追加され、浪速駅
貨車の集約作業が行われていたと思われます。

大阪港駅までの間にある運河は、大きな船が通れるように昇開橋
架けられていたそうな。 右の地点がソノ分岐点付近だと思われ、現在
同じ形道路が分岐しています。

大阪港駅大阪東港駅は共に1986年に廃止され、殊に大阪港駅周辺
は大きく再開発が成されたので面影は殆ど残ってナイでしょう。

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そんな感じで大阪臨港線を探る旅はココまでとして、奈良へ帰ります。

廃線跡に近い道路はJR難波方面へ行くバス路線ですが、本数が
少ないので都合よく走って来ず、少し遠いけど地下鉄大阪港駅
まで歩きます(地下鉄とは言ってもコノ辺は高架線上を走ってる)。

…思えば社会人として就職して、最初に配属された職場ココの近く
(天保山マーケットプレイス)だったので、何年間か通った駅です。

ソレが1996年頃の事なので浪速駅から先の貨物線既に廃止されて
おり、加えて鉄道趣味から遠ざかってた時期なので、廃線区間の存在
なんか考えた事も無かったですね。

と言う事で同日に2本大阪市内廃線跡効率よく回れた1日でした。



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