2017年8月、段々とネタが枯渇気味になり、苦肉の策と言いますか、
実家から見て回れる範囲にも廃線跡があったのを思い出し ました。
…1944年に休止、1958年に正式廃止となった大和鉄道です。
何しろ線路が無くなったのが戦時中の事であり、近くで生まれ育った
とは言え、ソレが線路跡だと認識したのはカナリ後の事なんですが。
地図にすると左の感じです。大和鉄道は元々、関西本線の王寺から
近鉄大阪線(現在)の桜井までを結んでいた路線で、王寺〜西田原本
は現在も近鉄田原本線として現役です。
…南東側の半分、西田原本〜桜井が、戦時中に不要不急路線として
休止され、そのまま復活する事なく廃線となりました。
まぁ少し迂回すれば大和八木経由の近鉄線があるワケで…要らんと
言えば要らん路線です。しかし私の実家と中学校、そして中学時代
に通ってた塾とを結ぶルートにピッタリなので「あったら便利だろう」
と推測されるワケなんですよね。
Wikipediaによると駅は西田原本−寺川−味間−大泉−東新堂−桜井。
線路跡は殆どが現在の県道14号線に転用されてるので、ソレに沿って
走ってみる事にしました。
という事で近鉄の西田原本駅からスタートです。…近鉄田原本線に
関しては以前に、コレもネタ不足の時に「我が故郷の乗り鉄」として
紹介しましたので、ソレの続きと言うか、ソコから反対方向へ旅する
感じを想像して頂ければイイかと思います。
…あまり知られておりませんが、近鉄の駅入場券は券売機ではなく
窓口で、硬券として売られています。
記念品ではなく実用で買う客は逆に珍しいのかも知れませんが。
現在の西田原本駅は、島式ホームが1本の行き止まり駅です。
メインで使う1番線が元は桜井方向へ伸びていたワケで、駅前広場
が整備される以前は、もう少し先まで線路があり、車両の留置に
使われていたのを覚えています。
ソレとは別に全く使われていない側線跡のような線路と低いホーム
が存在するんですよ。
…現在の島式ホームは1992年に車両が大型化し、本数も増えた時に
2番線が増設されたワケで、私が子供の頃は乗り場としては1番線
のみでした。この線路跡と低いホームから、ココが元は中間駅だった
事の名残りが伺えますね。
ではココから桜井方面へ、大和鉄道の廃線跡を探る旅に出発です。
…確認しておくと途中駅は−寺川−味間−大泉−東新堂−という感じ。
全てが地名や交差点名などとして残ってますから「大体コノ辺だろう」
という予想を付けるのは、地元で育った私にとっては簡単な事です。
西田原本駅から東へ、まずは県道
14号線から少し東の脇道を走ります。
左の駐車場は昔は「田原本デパート」
なる商業施設でした。
…名称がもぅ野暮ったいと言うか時代
を感じるワケですが、エスカレーターの
手すりに子供が馬乗りになって登る
遊びをやってるとか、民度の低い場所
だったのを覚えております。
そして現在の三笠交差点。…田原本町で最も複雑な「6叉路」の交差点
なのですが、標識の中の直進する14号線が線路跡なんですね。
じゃあ昔は踏切内で2本の道路が交差してたのか?…車が少なかった
戦前の事だから、コレでも危険は無かったのかも知れませんが。
ソコから暫く行くと、近鉄橿原線の高架下をくぐります。
…右は反対側からの見た目。リニューアルされたビスタカーだ。
コレは後に高架化したのではなく、古い写真を見ると開通当初から
この線形だった事が分かるのですが(当初はレンガ造りのアーチ式)、
線路ってのは基本的に、先に開通した方が地面、後からの方が高架
やら地下になるワケで…
調べてみると大和鉄道(田原本〜味間)が1922年(大正11年)9月3日 。
近鉄橿原線(平端〜橿原神宮前)が1923年(大正12年)3月21日。
半年の差で大和鉄道の方が早かった
ようですね。コレは意外でした。
続いては寺川という川を越えます。
ココにも駅があったようで、当然に
昔は鉄道の鉄橋だった事でしょうが
当時の面影らしきモノはありません。
所でこの寺川ですが、私が子供の頃
は「日本一汚い川」として有名でした。
…何かもぅ辟易とするぐらい民度の低い故郷ですが、コノ辺に寺川駅
があったそうな。
…そもそも寺川は何で汚いのか?別に大きな工場があって有毒な
廃水をタレ流してるとか、そんな事実はナイのです。恐らくは単に
住民がゴミを捨てまくるから。殆ど民度の問題だと言えるでしょうね。
出展がよく分からないのですが「大和鉄道」で画像検索すると寺川橋梁
を渡る列車の写真が出てきます。無断転載はマズいと思うのでURLで
載せておきますと…
→http://tasukinokai.sakura.ne.jp/img/shougyo/yamatetu/04_yamatesu
1001_teragawa.png
単線で非電化、殆ど軽便規格の小さな鉄道だった事が伺えますね。
(ゲージは1067mmだったようですが。)
更に行くと次に出てくるのが、国道24
号線と交差する千代北交差点です。
ココは古い地図で見た事があるの
ですが、元は国道が高架となって
線路跡をオーバークロスしてました。
交通量が増えて現在のような多車線
の交差点になった時、平面交差に
改められたらしいのです。
…コレって普通とは逆の流れですよね。車の量が増えて交差点が混む
から、直進を立体交差にしたってのはよく聞くハナシなんですが。
そして更に走ると味間という集落があり、コノ辺りに味間駅があったと
されております。…私が生まれ育った千代(ちしろ)の八条(はっちょ)
地区の隣村ですわ。
…通常なら「はちじょう」と読むモノを「はっちょ」と訛るのがもぅ…。
ともあれ、線路が残ってれば実家の最寄り駅はココになります。
県道脇に農協の倉庫があるのですが、ココの土地の形が交換設備の
ある駅っぽい感じなのと、道路の反対側に「ホームの跡?」と思しき
段差が僅かに確認出来る程度です。
そもそもが平坦な土地なので、橋台
やトンネルも無く、大仏鉄道みたいな
残り方はしていません。
…味間は田原本町の南東の端にある
集落なので、ココを過ぎると桜井市に
入ります。
田原本町はいずれ、桜井市に吸収
合併されるというハナシを昔から聞く
のですが、ナカナカ実現しませんな。
…鉄道の遺構が少ないだけに、単なる思い出話になっておりますが、
大和鉄道跡地の旅は続きます。線路跡は田原本町から桜井市に入って
おりますが、車窓に三輪山が見えてきました。
麓にある大神神社(三輪明神)は日本
最古の神社だと言われており、背後の
三輪山そのものがご神体なんです。
…祖母がココの神様を熱心に信仰
してて月に1度、幼児の私を連れて
お参りに行ってたのを覚えてます。
流石にもぅ鉄道は無かったのですが、
明治生まれの人だから大和鉄道の
現役時を知ってた可能性が高いわな。
…先程の味間駅(跡)近くからバスに乗り、帰りは適当な便が無かった
のか国鉄三輪駅から桜井経由で近鉄に乗り継いで帰るのが定番でした。
桜井線はまだ非電化で、キハ35辺りが走ってたのを覚えてます。
大泉〜東新堂も、駅と同じ名前の交差点が残ってますが、ソレらしい
痕跡は全くありません。…書く事もナイので、当時の想い出話を1つ。
祖母は子供が出来なかった(母は厳密には祖母の姪、高校生の時に
養女に来た。父は入り婿。)ので、子育ての下手な人だったんですよ。
…だから幼児の私の子守りをしつつ聴かせた歌が何と鉄道唱歌!
なワケで私は3歳ぐらいにして「汽笛一声新橋を♪」の1番をほぼフル
コーラス歌えるまでに覚えてしまったんです。
…この「ほぼ」というのが曲者でして、ラストの「月を旅路の友として」
を何故か祖母は歌えなかった。だから毎回「愛宕の山に入り残る…」
で終わっちゃうワケなんです。
子供心に「コレは不自然だ、何か繋げない
と極まりが悪い。」という事は分かるので、
ソノ先は創作するしかありません。
…で何を思ったか「うんこちゃん、うんこ
ちゃん♪」と三輪駅のホームで大熱唱!
祖母は恥かしかったかも知れませんが
ちゃんと教えない方が悪いのだ。
ぁ、東新堂駅の跡地付近ですが、最近は
中和幹線というバイパスが開通し、お店も
増えて田舎者のオアシスと化してます。
天理ラーメンなんてのは隣の天理市のモノではありますが、隠れた
奈良名物なので、機会があれば試して頂ければと思います。
…そんな感じで暫く行くと「春日神社前」という交差点で、県道14号線
は国道169号線に当たって終了。
一見すると狭い路地に見えますが、普通車が通れる程度の広さがある
脇道が続いてますので、ソコを斜めに…と言うか直進します。
この先に唯一、鉄道の跡地らしき遺跡が残ってますので、最後にソレを
見て桜井駅に到着となります。
近鉄大阪線が小さな川を跨いでいる鉄橋に出るのですが、ココが唯一
大和鉄道の遺構としてGoogleマップに掲載されている所なんですよ。
…「口コミはありません」?まぁこんなモノ、興味を持つ人は少なかろう。
鉄橋の下は道路にもなってるので、車で入る事が出来ます。…田原本
方向に、川の中にコンクリート製の橋台が建っており、ソノ反対側は
住宅地の交差点にドカンとそのまま!しかし何の説明もありません!
…コレ、はっきり言えば邪魔なのですが、何故か残っております。
誰も反対しないと言うか苦情を言わないもんなんでしょうか?
一応、普通車が避けて通れるだけの隙間はあるので大丈夫と言えば
大丈夫なんですがね。…もしかすると路上駐車除けとか、そんな意味
があるのかも知れません。
で、ココに入ってしまうと幹線道路へ戻るのが大変なのですが、何とか
道を探して目的地の桜井駅が見えて参りました。
桜井はJR桜井線(万葉まほろば線)と近鉄大阪線の共同使用駅です。
最初に触れたとおり、中学生の時に通ってた塾がコノ近くだったので、
よく使ってた駅でもありますが、当時とは変わりましたね。
当時は駅前に山口組系の暴力団事務所があり、隠す事なく「山菱」の
代紋の看板が掛かってたりしたもんですが、流石にもぅ無かったわ。
そんな感じで殆どが思い出話に終始した廃線跡巡りでしたが、何かの
資料としてネット検索した時にコレが引っ掛かったら面白かろうと、
至極無責任な事で記録を残しておこうと思います。
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