2017年12月、地元奈良県の廃線跡という事で、昭和20年まで存在した
近鉄法隆寺線…元の天理軽便鉄道の跡地を探ってきました。
天理軽便鉄道は1915年…大正4年に、大阪方面から天理(天理教の
聖地)までの短絡を目的に、新法隆寺〜天理で建設されました。
当時はまだ現在の近鉄線が存在せず、関西本線で奈良へ出て桜井線
に乗り換えるという、カナリ遠回りになるルートだったんですよ。
…だから大阪から天理へ行きたい人の中には、法隆寺で降りて約9km
を歩く人も居たそうな。
ソノ後1921年…大正10年に大阪電気軌道(現在の近鉄)が橿原線を
開通させると全線が大軌に買収され、現在も平端〜天理は近鉄天理線
として残っています。
…切り離された新法隆寺〜平端は、以後も762mm非電化のまま法隆寺
線として営業を続けておりましたが、戦時中に不要不急路線として休止
され、そのまま復活しなかったという歴史なんですね。
前置きが長くなりましたが、最初だからコノぐらいの説明は要りますな。
今回はJR大和路線の法隆寺駅からスタートです。
元は地上駅舎と2面3線の国鉄スタイル駅でしたが、2007年に現在の
橋上駅舎に変わりました。
…始発の新法隆寺駅がココの駅前にあったと言う事ですが、勿論その
痕跡はありません。
まずはJRの線路に沿って東へ行きます。…目的地の近鉄平端駅まで
は、当時の営業キロで4.3km。レンタサイクルが妥当な距離であり、
法隆寺周辺は観光地なのでお店も存在するのですが、戻ってくる必要
がありますから、ソレが面倒で歩く事にしました。
…ちょっとした溝の橋が枕木の廃品だったする所がイイですね。
暫くは新しい住宅地が続き、線路の痕跡はナイのですが、ソレが切れると
田んぼの中に畦道と化した道床が現れます。
…右はJRの電車内から見た風景ですが、段々と勾配を付けて高くなって
いくのが分かると思います。この先で富雄川を越えるからなんですね。
そんな感じで天理軽便鉄道の跡地を探る旅が始まりました。
廃線時の線名は「近鉄法隆寺線」なのですが、上の方がイメージに近い
ので、今後もソレで表記する事にします。
廃線跡の道床に段々と勾配が付いて、高めの築堤になってきました。
この先で富雄川(一級河川)を越えるのです。
…相変わらず北側に、大和路線の線路が見えておりますね。先程、ココ
へ来る車内から見た風景がコノ辺りに相当するんだと思われます。
築堤に切れ目があるのは、下を通ってた畦道を高架橋で越えてた名残り
でしょうか?同じ経度にある大和路線にも、歴史を感じるレンガ造りの
低い橋が架かっております。
大和路線のコノ区間が開通したのは明治23年の事。…もしかしたら、
ソノ当時から存在する橋台かも知れませんね。
その先で両線とも富雄川に当たりますが、最近になって護岸工事が
行われたであろう新しい堤防なので、天理軽便鉄道の方は痕跡が
ありません。…折角なので大和路線の方を撮り鉄。
221系ってのは私らの世代では、まだまだ新しい方ですが、もう30年
経つんですよね。塗装は変わらないのに内外ともに色々と手が入り、
最初とはと違った印象になってるモノもあります。
大和路線はコノ辺りから北東方向へ曲がり、天理軽便鉄道とは離れて
行きます。そのギリギリぐらいの所で、車窓から見えるコノ部分が大海
駅長から指摘を受けて調べるキッカケとなった築堤跡なんですよ。
木戸池という溜池なんですが、その真ん中を線路が突っ切ってたという
事ですね。当然に溜池の方が先で、迂回するのが面倒だったんでしょ。
…フェンスがあるものの扉が開いてますので、入ってみましょう。
さて天理軽便鉄道を探る旅ですが、廃線跡の中で恐らくココが一番の
見せ場であろう木戸池の築堤です。
幅にすると3mぐらい?レンガ積みの築堤だから、崩れて小さくなったり
もしないでしょう。当時からこのサイズだったと思われますが、やはり
一般的な鉄道より小さい軽便規格ですね。
風景としても家のデザインが変わった程度で、大正時代とそんなに差は
ナイと思われます。こんな風景の中を軽便の汽車が走ってたのか。
中央部にあったと思しき鉄橋は、流石に外されています。
反対側までの距離は、目測で4mぐらいか。…走り幅跳びで行ける?
まぁヤメときましょう。
元来た道を戻り、池の南側を迂回します。…天理軽便鉄道とコノ築堤
に関する説明書きの看板が設置されておりました。
スタートした法隆寺駅は斑鳩町ですが、先程の富雄川を越えた所から
安堵町に入っております。…日本で3番目に小さい町だそうな。
JR大和路線は通ってますが、駅はありません。…天理軽便鉄道が現代
に残ってたら、安堵駅(後述)があった所なんですがね。
762mmの軽便鉄道が今もあれば、さぞ面白い事になってたでしょうに。
先程の築堤を見つつ池を迂回すると、西安堵という集落に当たります。
…民家の横の盛り土になった部分が廃線跡のようですが、どうも歩ける
状態では無さそうなので、更に迂回します。
この西安堵地区に町役場や公民館などの施設が集まっており、安堵町
の中心部という事になるんでしょうか?
…トーク安堵カルチャーセンターですか。「安堵」と「&」を掛けた?
この付近に安堵駅が存在らしいので、駅の痕跡がナイか、探ってみる
事にしましょう。
という事で天理軽便鉄道です。安堵町の西安堵という地区に来ました。
…ココに安堵駅が存在したというハナシなのですが…
廃線跡は、左の画像の矢印の部分…手前に見える駐在所の建物裏
の路地のような道だそうですが、半世紀以上が経ってしまうと痕跡は
ナイですね。
…安堵駅の様子に関しては、後から行く資料館で詳しく知る事が出来
ました。駅っても軽便鉄道ですから、バス停に毛の生えた程度です。
更に廃線跡の路地を進むと、空き地に大量の猫除けペットボトルが。
…猫に優しくナイ町なのね。
現在はバス(一応は代行って事になるのか?)が走る県道を挟んだ
反対側に、町役場や公民館、消防署などが集まっており、町の中心部
になるようです。
…思い出した。ココ、テレビの取材の仕事で来た事あるわ。
ある年の夏に安堵町で、熱中症になった老人がそのまま死亡するという
事故?があり、よくある後追い資料映像みたいなので、テレビ局のカメラ
マンの人を乗せ、病院の救急入口の映像を撮って、消防署に停まってる
救急車の映像を撮って…というのでした。楽な仕事ですな(どっちが?)。
そんな事を思い出しつつ暫く歩くと、安堵町歴史民俗資料館という看板
が出てきます。
元々は庄屋さんの屋敷だったという古民家を利用した資料館で、ソノ
名の通り安堵町の歴史的な遺物が展示されてるのですが、天理軽便
鉄道に関する展示もあるらしいと聞きました。
基本的には平日に適当にウロウロする私の取材ですが、こういう施設
がある場合は休館日に気を付けて…ココの場合は火曜日を外して来る
ように調整してあります。
天井の高い土間がある造りは、ドコの田舎でも農家なら大体こんな感じ
でしょう。この辺は適当にスルーして、軽便鉄道の展示があるという土蔵
の方へと向かいます。
古い時代の事ですしソレ専門の博物館でもナイので、実物車両などの
大きな展示物はありません。…写真や模型がメインですね。
まぁ展示スペースとて元は農家の土蔵ですから、この程度が限界か?
…Wikipediaによると、開業当初はタンク機関車が3両、客車と貨車が
10両ずつ在籍してたそうな。
左が始発の新法隆寺駅。右が先程通って来た役場近くにあったという
安堵駅の写真だそうで…それぞれ「昭和16年頃」と注釈がありますね。
軽便だからホントに簡素と言うか、現代の歩道縁石より少し高い程度
のホームなのですが…コレでも近鉄の駅!という違和感満載ですね。
現在、奈良市の中心部から法隆寺へは、当然にJR一本で行けるワケ
ですが、近鉄だと筒井駅でバスに乗り換えるのが妥当。車内放送でも
ソノように案内されるのですが、ココに鉄道が1本あれば、アクセス案内
もカナリ変わってたと思います。…まぁ高規格化はするだろうけど。
軽便のお約束である「線路幅の比較」と、コレが一番大きいと思われる
勾配票が残っておりました。…軽便で10‰ってと、結構キツいかもね。
最初は蒸気動力で始まった天理軽便鉄道も、昭和に入ると内燃化された
ようで、このようなガソリンカーが登場します。
片ボギー式で、ボンネット側の小さな台車が動力台車なのでしょう。
折り返し運転には転車台があった方が便利だろうな。
…似たようなやつは九十九里鉄道(千葉)とか西大寺鉄道(岡山)でも
見たかな。何れも資料だけですが。
コレに関しては細密な模型が展示されてますので、続けて見てみましょう。
さて天理軽便鉄道ですが、引き続いて安堵町歴史民俗資料館で、ソレに
関する展示品を見学しております。
現役時に安堵町に存在したという、安堵駅の復元模型がありました。
…先述の記録写真の通りホントに小さな駅と言うか、ほぼ停留所だな。
資料写真が全てモノクロなので、車両の色が全く分からなかったの
ですが、コレで見る限りモスグリーンな感じです。
左右のレールに配線が為されてから「走るのか?」と思って調べた所、
この模型を作成した団体の方による運転会が定期的に開かれるそうな。
…しかし距離がコノ程度ですから、ほんの数秒で往復する感じでしょう?
と、先程見て来た木戸池の築堤を走る機関車列車の模型もあります。
こちらは動かないようですが。…さぞ、のどかな風景だっただろうと…。
そんな感じで歴史民俗資料館を後にして、更に東へ歩きます。…道路脇
の空き地に、何やら人が並んで座ってる所があって、近くで見たらカカシ
の集団の背後に「大和安堵」という駅名票のようなモノがありました。
…若桜鉄道と同じ発想ですね。しかし正確な安堵駅の跡地とは場所が
違うようです。「大和安堵」だから「武蔵浦和」みたいな別の駅なのか?
両隣が額田部と新法隆寺だから、コレでいいのか。所で池崎って誰?
…若干の謎が増えた気がしますが、そのまま歩くと、畑に行きあたって
道が無くなりました。地図だと線路跡がこのまま直進する筈なんですが。
仕方がナイので今ある道を迂回して、西名阪自動車道の側道に出ます。
…最近流行りの無人のスマートIC、大和まほろばインターチェンジがある
辺りまでが廃線跡のようですね。
西名阪自動車道の開通は昭和44年、天理軽便鉄道の営業時期とは勿論
被りません。
今までとは違った感じの風景になりましたが、更に東へと歩きます。
さて天理軽便鉄道の跡地を探る旅です。安堵町の中心部を離れ、西名阪
自動車道に沿って歩いてきました。
…行政区画はコノ辺りから、大和郡山市に入っております。
最近になって「大和まほろば」という名称のスマートICが出来ましたが、
私にとっては仕事でも私用でも中途半端な位置にあるので、使った事は
ナイですね。
そして自動車道の北側には、陸運局やらトラック協会やら…自動車関係
の施設が集まっております。
…私は流石にユーザー車検までは出来ないのですが、タクシーの乗務員
登録センター(正式名称失念)もココの一角にあるんですよ。
だから運転免許を更新したら、新しい免許証を持ってココで乗務員登録も
更新する必要があります。
タクシーの乗務員を都道府県単位で一括に管理するのは、元は東京や
大阪だけの制度だったのが、2年ほど前に全国そうなったので、ソコから
ダッシュボードに掲示する乗務員証も全国共通のタイプに変わりました。
旅好きな方はタクシーに乗ったら確認してみて下さい。昔と違って、全て
のタクシーが同じ書式のになってる筈です。
そのまま暫く行き、高架下をくぐって自動車道の南側へ出ます。
…コノ辺りは昭和工業団地というソレの北の端っこぐらいですかね?
主に食品メーカーなどの大きな工場が並んでる一角を通る感じでした。
天理軽便鉄道と西名阪自動車道を比べると、時代的に24年の隔たり
があるのですが、元々鉄道があったという事は、田んぼなどの区割も
ソレに準じた形になってて、そのまま用地買収をしたとしたら、線形が
似るのも当然なのかも知れませんね。
その先は普通の住宅地に入り、道が狭くなりますが廃線跡が確実に
残っております。コノ辺りも元は田んぼ道だった所が、近年になって
宅地化が進んだ状況だと推測。
…一軒のお家の庭にきかんしゃトーマスを模したようなプランターが
置いてありましたが、ココが廃線跡だとご存知なのでしょうか?
更に東へ歩いて、あともう少しでゴール地点の近鉄平端駅。…という
直前にある交差点が、天理軽便鉄道の額田部(ぬかたべ)駅の跡地に
なるそうです。
距離にすると数百メートルなのですが、平端駅は近鉄(現在)が開通
した時に出来たので、元々は無かった駅。…でもココから先が天理線
として買収された後も、額田部駅は廃止されず残ってたようですね。
…まぁ軽便だとソノぐらいの駅間は普通かも知れません。そんな感じで
間もなく、ゴールの近鉄平端駅です。
ぁ、記事の主文は天理軽便鉄道を探る旅でしたね。今回が最終回です。
現在の近鉄平端駅に程近い額田部駅の跡地付近まで来た時、平端方向
からバスが走ってきました。
車両は奈良交通のバスですが「安堵町コミュニティバス」となってます。
…そして「天理軽便鉄道」の文字とともに、例の気動車の絵が!
路線の廃止がもう半世紀以上前の事であり、正確に「代行バス」ではナイ
のでしょうが、調べると一部は廃線跡のルートも通るようです。
しかしまぁ、例えば法隆寺駅前からコレに乗って平端へ出て、現在の近鉄
天理線に乗り換えて天理へ向かう人ってのは殆ど居ないでしょうね。
歩いてきた道路に並行して南側に、線路の築堤の跡らしき盛り土がある
のですが、わざわざココで高度を上げてどうしたのか?ソレとも単に
「そういう地形」なのか…コノ辺は流石に分かりません。
ともあれ近鉄平端駅に到着です。JR法隆寺駅から歩いて約5kmの道程
でした。
現在の一般的な認識としては、橿原線と天理線が分岐する駅であり、
橿原線は上下とも緩急接続が出来る線形なので、優等列車が普通列車
を追い抜く駅ってのもありますか。
廃線跡は駅舎本屋の南側から更に続き、天理線ホームの下をくぐる
地下道付近までと考えられます。
ソノ先は現在も、近鉄天理線の高規格な線路として残ってますね(駅間
が短く急行も全ての駅に停まるので、そんなに速度は出さないけど)。
という事で、地元にありながら今まであまり意識する事のなかった天理
軽便鉄道の事がよく分かった旅でした。…途中に資料館があるのが
有り難いハナシです。
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